ピンポーンとチャイムが鳴って、
トントンとゾロのアパートのドアを叩く音がする。
風呂上がりで、Tシャツとジャージという格好のまま、
飲もうとして開けたばかりのビールの缶をキッチンに置いた。
こんな時間に一体誰が、とゾロは訝しげにドアを開ける。
そこに立っていたのは、スモーカーさんの彼女、たしぎだった。
「どうしたんですか?」一応敬語で尋ねる。
たしぎは、一度だけ、スモーカーに連れらられて、
ソロのアパートに来たことがあった。
「電車、なくなっちゃったんです。」
他人行儀なのか、癖なのか、たしぎは、誰に対しても敬語を使う。
「スモーカーさんとこ、行けばいいじゃないですか。」
「だって、あの人、別の店に飲みに行くって。」
ゾロは、どう対処していいか分からずに、突っ立っていた。
「こんな所で立ち話も何だし、入っていいですか?」
「あ、はぁ、どうぞ。」それはオレの台詞だろと思いつつ、中に入れた。
「合鍵とか、持ってないんですか?」
「ん、なくした・・・」
一応、一間のコタツがある部屋に通して、座布団を差し出す。
脱ぎ散らかした服を急いで、洗濯機に放り込んだ。
「だって、あの人、ひどいんですよ〜。ふふふ。」
ペタンと座り、思い出し笑いをしながら、
独り言なのか、ゾロに向かってなのか、お構いなしに話し始める。
「酔っ払ってんですか?」
まったく、しょうがねぇな。人のアパート転がり込んで、のろけ話かよ。
それに、スモさんに何て申し開きすればいいんだよ。この状況。
苦々しく思いながらも、冷蔵庫から水のペットボトルを出して、
ドンとたしぎの前に置く。
「ありがと。ロロノアは、優しいんですね。」
「・・・気ぃ、使ってるだけです。」
「ふ〜〜〜ん。」不満気に口を尖らせる。
「どうすんですか?送って行きますよ。」
酔っ払いをバイクの後ろに乗せるのは、気乗りしないが、このまま泊まるつもりじゃないだろうし。
「え〜〜〜、寒いからもう外出たくないですぅ。」
コタツ布団を引っ張り上げて、ペタンと天板に身体を投げ出す。
「わかりました。じゃ、鍵置いとくんで、この部屋使っていいです。
俺、ダチんとこ泊まりに行くから。」
ゾロは、立ち上がり着替えるべく、クローゼットを開けた。
たしぎは、さっきとは、うって変わり、急に殊勝な顔になると
「・・・ごめん。迷惑ですよね。私、帰ります。」
そう言って、立ちあがる。
ジャケットとバッグを手に持ち、玄関の方へ向かおうとして足がもつれる。
転びかけた所に、ゾロが手を出して抱きかかえるような格好になった。
ゾロは、なんだか急に緊張した。
たしぎは、細くて、軽くて、柔らかくて、そして、煙草の香りがした。
連れ戻して、座布団に座らせると、ゾロはテレビをつける。
深夜のお笑い番組が、映し出された。
「別に、泊まってっても、構わないから。オレは、このまま起きてる。」
たしぎと目を合わせないで伝える。
「そっちに布団敷いてあるし、よかったら使えばいい。」
「・・・ありがと。」
そのまま、何も喋らないまま、首が痛くなるまでテレビの画面を見つめていた。
ふと、たしぎの方を見ると、コタツに突っ伏して、寝息をたてている。
なんちゅう、無防備なんだ、こいつは。
半ば呆れながらも、少しホッとする。
風邪をひかれても困ると、たしぎを抱きかかえて隣りの布団のある部屋に連れて行く。
このまま、朝まで寝てるだろう。
たしぎを布団の上に降ろすと、「・・・ん。」とすこし呻く。
その声が、なんだかなまめかしく、少しの間、動けずにいた。
身体の下になった腕を引き抜こうとした瞬間、
たしぎは、腕をゾロの首に廻してきた。
「・・・行かないで・・・」
身体が近すぎて、たしぎの顔を見ることができない。
くそっ、スモさんと間違えてんのか。
たしぎの手を振り払うことも出来ずに、じっと顔をたしぎの肩に埋めていた。
自分の心臓の音と、たしぎの息遣いだけが、耳に響いている。
いつの間にか、たしぎの腕からだらりと力が抜けた。
ふぅと大きく息を吐くと、ゆっくりと身体を離す。
すっかり、硬くなった首をぐるりと回し、たしぎに布団を掛けてやる。
静かに部屋を出た。
すっかり終わっているテレビを消すと、風呂上がりに飲もうとしていた
気の抜けた缶ビールを一気に飲み干した。
まったくどういうつもりなんだ。
壁に寄りかかって、ぐちゃぐちゃの頭の中を落ち着かせようと
目をつぶった。
*******
たしぎが、スモーカーに連れられて、この部屋を訪れたのは、年末の忘年会のシーズンだった。
スモーカーは、この大学に入ってから、ゾロと同じ高校の出身ということで、
なにかと声をかけてくれるようになった。
その日も、この辺では買えない故郷の食材を、援助物資と称し持ってきてくれた。
その後ろに、隠れるように立っていたのがたしぎだった。
スモーカーは、大学の助手をしていて、専攻もゾロとは違うので普段はほとんど会うことがない。
時折、「飯どうだ?」と誘ってくれるので、ゾロは食費の節約にと、いつもありがたくご馳走になりに行くのだった。
その食事の席に、いつからかたしぎも一緒に座るようになっていた。
スモーカーが助手をしているクザン教授のゼミの一員らしい。ゾロより二つ歳上の3年生だ。
付き合うようになった経緯は知らないが、スモーカーがよく大声で「おい、たしぎ!」と呼んでいた。
*******
いつのまにか眠ってしまったらしい。
シャワーの音で目が覚めた。空が白んでいる。時計を見ると五時半だった。
たしぎの寝ている部屋を覗くと、きちんと布団がたたまれ、たしぎの姿はなかった。
あいつ、勝手に風呂まで入りやがって図々しい。
用を足したくなって、風呂場の横のトイレに向かおうとしたら、丁度出てきたたしぎと鉢合わせした。
脱衣所なんてたいそうなスペースは無い部屋だから、服をひっかけたような格好で、出てきた。
濡れた髪と、少し開いた胸元から、慌てて目を逸した。
「あ、ロロノア起こしちゃいました?シャワー借りました。」
石鹸の香りが、鼻をくすぐる。
なるべく近寄らないように、避けてトイレに向かう。
「あ、ロロノアもシャワーですか?」と、すぐ側で聞いてくるので、
「しょんべんっ!」と大声で答えた。
無駄にゆっくり時間をかけて、トイレから出ると、たしぎは身支度を済ませ、正座していた。
「お世話になりました。」両手をついて丁寧にお辞儀をする。
髪はまだ濡れたままだ。
「髪、乾かしてけよ。」
「あ、大丈夫です。これくらい。」
「風邪ひくだろ。そんな頭で外でたらっ。」
普段使いもしないドライヤーを洗面台の下から出してきて、ほれっとたしぎに放ってやった。
「あ、ありがとうございます。やっぱり、ロロノア、優しいですね。」ふふっと、たしぎが微笑む。
「うるせー。」そっぽを向いて、たしぎが髪を乾かすのを、後ろで黙って待っていた。
カチッとスイッチを切ると、急に部屋が静かになった。
たしぎが片付ける音が響く。
そして、おもむろに立ち上がると、「ほんとに、ありがとうございました。このお礼は、ちゃんとしますから。」
やけに、スッキリした顔でお辞儀をする。
オレの横をすり抜けて、玄関へと向かうたしぎに、無性に腹がたった。
靴を履いて、振り返る。
「・・・じゃあ。」
ゾロはたしぎの肩をつかんだ。
「礼なら、今してけよ。」
昨日から、溜まっていたイライラをぶつけるように、たしに唇を押し付ける。
頭の奥で、昨夜のたしぎの感触がチカチカと甦る。
乾いたばかりの髪をくしゃくしゃにして、舌を差し入れる。
「・・・んっ。」たしぎの喘ぎに、気が咎める。
押さえていた手の力を抜くと、唇を少し離す。
すっとたしぎの腕がゾロの首に廻された。
やさしく大切なものにふれるような口づけを落とすと、
「ごめんね。」掠れたような声で、つぶやいて、手が解かれる。
下を向いたまま、ゾロを見ようともせずに、ドアを開け、出て行った。
******
たしぎの口づけの意味も解らないまま、一ヶ月ほど過ぎた。
何事もなかったかのように、学校は春休みに入り、
ゾロは所属している陸上部の練習に出るためだけに、学校のグラウンドに通っていた。
学食で昼飯を食べる時以外は、教授や生徒たちが集う建物棟には、近づかなかった。
練習を終え、帰り支度をしていると、スモーカーがグラウンドまでやって来た。
こんな所まで来ることも珍しいが、見たことのないスーツ姿だ。
「どうしたんですか?」
「ん?ああ、俺、4月からマリージョア大学のほうで、講師をすることになった。」
「あ、おめでとうございます。出世じゃないですか。」
三十代で講師なら、相当早い方だろう。
「まあ、ここともお別れだな。」
咥え煙草の煙を大きく吐き出すと、頭をガリガリと掻く。
「ところで。・・・たしぎのことなんだが・・・」
ゾロは、ドキリとする。あの時の事は、スモーカーには言っていない。
黙って、その先を待っていると。
「好きな男が出来た、と言われた。」
「そうなんですか・・・」なぜか、胸が苦しかった。
「それで、別れて欲しいって・・・」
「・・・はぁ。」なんと答えていいか解らない。
「ゾロ、そいつが誰か知ってるか?」
首を激しく振る。「いいえ。でも、そんなこと知ってどうするんですか。」
「まあ・・・うん、そうだな。」
「いや、お前ならしゃーねぇかと思ったんだがな。たしぎが違うって、言うし。」
「オ、オレじゃないですよ。」答えながら、ゾロに焦燥感が沸き上がる。
「悪い、邪魔したな。」
「いえ。」
「ま、送別会に顔出せよ。」
「はい、わかりました。」
スモーカーが立ち去ると、ゾロは暫く夕焼けの中、佇んでいた。
汗が冷えて、身震いするまで。
あの口づけは何だったんだ。すっきりしない澱だけが残った。
〈続〉