発風 3





ふぅ。

綺麗に片付いた研究室を見回して
たしぎは、一息ついた。

もう、ここに来ることもないんだな。

院生の卒業式は
4年生の卒業とは違い、それほど派手に祝うような感じではない。

服装も、たしぎは就職活動で使った地味な黒いスーツにコサージュをつけただけだった。

この後、院生とゼミの後輩達と一緒に、軽く食事をする予定だ。



クザン教授には、お世話になった院生達で、
卒業式前に感謝の会を開いていたので、今日は最後の挨拶をするだけで終わるだろう。

それまでの時間、たしぎは長い時間を過ごしたこの研究室を
綺麗にしたかった。

隅々まで掃除していると、いろいろな思いが浮かんでは消えた。


修士論文を提出し、1月に口頭試問が終わると
研究室に顔を出す機会はなかった。
自分の荷物を引き取りに来なければならなかったが、
今日まで足が向かわず、伸び伸びになっていたのだ。


学校に来れば、どうしてもあの緑の髪を探してしまう自分が
情けなくて嫌だった。

会いたいのか、
会ってどうするつもりなのか・・・


何も思いつかないまま、卒業式に出席した。

式が終わり、会場となった講堂の外に出ると
在校生達が花束やプレゼントを手に卒業生を取り囲んでいた。

華やかな様子に気が引けて、
たしぎは、早々に研究室に引き上げてきた。

カチャリ。
クザン教授から預かった鍵をかけると、
エレベーターを使わずに研究棟の階段を下りた。

外に出ると、まだ早い春の空は暖かさも残しながら
雲に覆われていた。

もう、式の賑やかさはおさまり、
鳥のさえずりさえ聞こえる長閑さだった。

たしぎは、研究棟の周りをぐるりと一周すると、
食堂、体育館、一つ一つ、名残惜しむように歩いてまわった。

グランドが見える道で、足が止まった。

夏の間、誰もいないグランドで
一人走り続けるゾロを見かけた。

その姿を、遠くからずっと見つめていた。


目に浮かぶその姿は、今日はいない。

いつもの場所に、ゾロのバイクの影もない。



何を期待してたんだろう。

もう、終わったことなのに・・・

電話をかける勇気も、メールする勇気も
なくしてしまった自分を、嘲笑うように空を仰いだ。



いつまでも、ここには居られない。
もう、出て行かなければ・・・

それだけは、身にしみていた。


心の置き場も定まらないまま、新しい生活に向かうしかなかった。

これでよかったんだ。


社会というものに身を投じれば
何か変わるだろうか。


半分、あきらめにもにた感傷にゆだねながら、再び歩き出した。



急に目の前に出てきた人影に、驚いてたしぎは立ち止まる。


「あ。」


思わず声を上げたのは、見知った顔だったからだ。

陸上部のマネージャーのペローナが、立ちはだかるようにたしぎの前に現れた。


「ど、どうも・・・」

ペローナの真っ直ぐな視線に、たしぎは動揺した。



夏の間、ペローナとゾロが一緒にいる姿を何度か見かけた。


共にいる二人を見ても、たしぎは何の感情も抱かなかった。


何も感じないふりをしてただけだと気付いたのは、
あの日、ゾロのアパートから出てきたペローナと鉢合わせした後だった。

ドクドクと湧き上がる自分の激しい感情に驚いた。


*****

嫌だ!


激しく頭を振る。

私以外のひとに、触れないで!

他の誰にも。



酷い・・・

鏡に映る恨みがましい自分の顔に
隠そうとしてきた本音を痛感した。



今なら少しはわかるロロノアの気持ち。

私がスモーカーさんの車に乗り込むのを
どんな気持ちで見ていたんだろう。

どれほど彼を傷つけてしまったのか。



しばらく、固まっように動かないたしぎを
ペローナは、何か言い出しそうに見つめている。

「あいつ・・・」

ペローナの声に、たしぎははっとして目の前の顔と
視線を合わせた。

ペローナの瞳には、逡巡する迷いが浮かんでいた。


言ってしまっていいのか?

そうたしぎに問いかけているようだった。


もう、何を聴いても、これ以上傷つくまい。


たしぎは少し首をかしげ、問いかける。
その気配に後押しされるようにペローナは口を開いた。


「お前のこと、忘れられないんだと・・・・」

その言葉が何を意味するのか、たしぎは呑み込めなかった。



「何度も、あやまるんだよ。」
ペローナは、腕を組んで、大きく息をついてみせる。

たしぎには、ペローナが無理しているのに気づく余裕すらない。

「まったく・・・見かけによらず・・・」
ペローナの声が次第に小さくなっていく。

「・・・やさしすぎるんだよ。」


たしぎは、息をするのも忘れるほど、手をぎゅっと胸のところで
握りしめていた。


くっと顔をあげたペローナが、再びたしぎをまっすぐに睨みつける。

「なにもなかったから!あいつの為に、言うからな。
 あの日、なんにもなかったんだから!いいな、わかったな!」

一息で言い切ると、ばっと走り出した。
歪んだ顔を見られまいと。

背中で、ペローナの遠ざかる足音を聞きながら、
たしぎはただ前を見つめていた。



がんじがらめだった心が、脈を打つ。

ペローナの言葉が、凍った心に水のように染み渡る。


いつの間にか、たしぎは歩き出していた。

校門を出ると、一度だけ振り返り学び舎を仰ぎ見る。
軽く目を閉じ礼をした。

そして、校舎に背を向け、背筋を伸ばして歩き出す。


やっと歩き出せる。
一歩踏み出せる。


見慣れた街並みの景色が、どんどん通り過ぎていく。


進むその先に、あなたがいればいいと思う。

もう一度、巡り合いたい。



何の確証もないけれれど、たしぎはその想いを信じようと思った。

ペローナの言葉に、信じてもいいと許された気がした。

顔をあげて歩くたしぎの瞳は、真っ直ぐに前だけを見つめていた。





〈続>


H26.5.15